(ときどき)個展deスカイ!

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2008年 01月 29日

誓い

睡眠5時間確保。

ーーんでも、無理だろうなあ。
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by kotendesky | 2008-01-29 01:07 | 冗舌亭日乗
2008年 01月 28日

一週間の反省

この一週間、雪と仕事。で絵を描けなかった。
で、一週間のボヤキ

暫定税率廃止
1兆2千億円程度の税収不足は、日銀と日本郵便の國庫納付金で9千億円程度の穴埋めは出来るそうだ。ガソリン価格の引き下げで経済活動は多少上向きになり法人所得税と個人所得税の税収増で大体トントンとなる。
要するにこの程度の金額は何とでもなるという数字だ。コピー用紙の裏でコピーするという経済観念の発想では国は滅ぶ。
ならば、根拠を失った税率は廃止するべきだろう。

公立学校で夜間塾
賛否両論あるだろうが、東京都教委が反対を言う。杉並区が実施するという。
てっきり石原慎太郎知事がやれと言ったのだと思っていた。
杉並区って教育委員の公選制を敷いていた区ではなかったか。
で、学校など、区の公共施設で民間団体が料金を徴収して学習塾事業を行うというのはコーヒーショップやコンビニを開くと言うことと同じというわけには行きますまい。
公教育と学習塾を時間をずらして並立するというのは、義務教育のために国庫から多額の税金を投入している現状から、ひとつの行政区だけで勝手にやって良いというモノではない。
それでも、横並び公教育に危機感を抱いた中学校が、出来る生徒は伸ばすという現状を保護者が意見を反映できる運営方法で試験的にやってみるという価値は認めよう。
議論はそこからでも遅くはないと思うが…

モンスター親
何というのかなあ、心に余裕の無くなった「大人」が多くなったような気がする。お前らに俺たち世代の学力があるのなら相手になってやろうが、現状では駄々っ子すぎるぜ。
だから軽くいなされて誤魔化されて結局「ご子息」を使い物にならない代物にされてしまうのが落ちだろう。
そんな親にしつけられたガキが受験競争に負けても誰も責任は取らんぜよ。

マイ箸運動
これは、運動自体が的はずれ。国産の割り箸を使う店が一回の飲食で2円50銭程度負担させれば解決する問題。レジ袋とは次元が違う。
まず、国産割り箸を使うことは間伐材を有効利用することになる。これまでは売れないので捨てられていたか森林を放置していたかのどちらかだ。
だから、健全な山林を維持しようとする林業関係者は余った間伐材を一膳3円50銭の高級割り箸にして売っていた。しかし、大量の中国製の箸が輸入されてそれらの高級品が半額以下の1円程度で売られると飲食業者は1円のを使う。したがって我が国の森林は荒れるばかりだ。
だから、エコロジーとは違う次元で箸問題は考えられるべきで、当面は日本製で、間伐材から作られた割り箸を持ち歩くこと。もしくは飲食店業界が日本製の間伐材で作った箸を使うことで、一膳2円50銭の負担金を消費者からいただく。これは堂々と表示すべきだ。「国産間伐材利用の店」「森林を保護する店」。
たかが1000円なにがしの箸を買ったとて森林保護には役立たぬ。国産割り箸を使おう。

豊かな森林のある日本は国民が森林保護に一役も二役も果たせないと将来水も飲めない国になるのだぞ。

関連サイト
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by kotendesky | 2008-01-28 23:49 | 冗舌亭日乗
2008年 01月 19日

日本口語訳   『センタンデ サスワササレルワ…』

ああこの形而上が私であって形而下がわたしであるのなら、つまりここ!! この形而中であることのこのわたくし!! このこれのなんやかや…

と言っても『栄通さん』の文ではありませんが(笑)、芥川賞作家の川上未映子さんの文章の一部です。
この作家の名前について僕は、少し自慢げに聞こえるかもしれませんが、雑誌『広告批評』1月号の対談記事で事前知識なしに注目していたのですねえ。
つまり、冒頭挙げた文節が続くのですが、こうした作品が今時はあっさりと芥川賞に選ばれるのですねえ。実に驚いたことです。

この川上さんという人の文章というのはちょうど桑田佳祐が登場したあたりから日本の歌謡詞がじつは大変貌を遂げるのですけれど、それがそう最近は『つんく』の作詞まで連綿と連なるわけです。
だからそうした作詞の世界の小革命があってそれが散文に続き、文学(詩、小説)に育ってゆくのですね。じつに日本語の変貌というか姿形が変わったものです。

偶然といいますか、出版社としては決まっていたのでしょうが広辞苑が改訂されて最近の若者言葉が収載されたわけです。
 広辞苑というのが日本語の破壊もしくは日本語使いのしきたりの破戒に僕はある程度貢献していると思っているのですけれど、であれば辞書というものが正しい日本語の宝庫かと言えばそういう命題は簡単にはできないわけで結局は世間言葉の引き出しに過ぎないという至極当たり前の結論に帰着するわけです。
しかし、ビジネス文書や公用文や新聞の記事文章などに与える影響はきわめて大きいのだけれど、あまり広辞苑が日本語を破壊するなどと言う意見は聞いたことも見たこともないですね。これからの日本語は皆さん感ずるところのこれまでの日本語ではない、けれど日本語調のことばにはつながる言葉には違いないのですが、しかしそうとはいい切れない何となくきまりの悪いものになって行くと思います。

『ゲストの角福大三さんと丸橋本雄さんとそれに司会の新田八目さん生田六田子さんの4人の対談』という新聞の記事に出くわすと、これはいかんなあと思うのですけれど、まあその度に驚いていては身が持たないというものです。

言葉は生きていて書いた本人は死んでも言葉が死んだということはないわけですから、活きの良い悪いはあるにしても生きていれば勉強の努力もしないで公立高校に通っている奴らも、哲学をお経のようにしゃべる教授の講義を眠らずに聞いている感心な学生でも、読書は精神の葬式であるという気の利いたことを主張する無類の阿呆も、昼寝こそ哲学であると言って居眠りばかりしている貴重な馬鹿も、人間は考える葦であるという事からウォーキングこそシンキングと本質的に同義だと短絡的に結びつける素敵な紳士も、赤福のアンコは本質だとかのたまうような人々においても、まあ後半はほとんど自分のことだけれど、結局のところ同じように扱わなくてはならぬという事になるわけですな。

例えば基本的人権というようなあまり深く考えないような言葉でも、役所が横一列でよいと言えばそうかなあと思うような人々が、役所の人間が個性のない個人集団で将来の普遍的な推計ないしは推量が損なわれていても議会があるからとか選挙で選ばれた首長が居るからと言うきわめて曖昧な根拠で役所を信じていると結局はステレオタイプにはんこをぺたぺた押したような人間を大勢世の中に送り出すような時代になりそうな気がするなあ。

まあ、戦後の日本は多かれ少なかれこんなものかも知れないと思うのです。
要するにタイトルにもあるけれど『先端で刺すわ刺されるわそらええわ』ですねえ。
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by kotendesky | 2008-01-19 01:39 | 冗舌亭日乗
2008年 01月 17日

『センタンデ サスワササレルワ ソラエエワ』

ああこの形而上が私であって形而下がわたしであるのなら、つまりここ!!この形而中であることのこのわたくし!!このこれのなんやかや…

ってー別に『栄通さん』の文章じゃないけど(笑)、芥川賞作家川上未映子さんの文章の一部であるけれど、この作家の名前を僕は雑誌広告批評一月號で偶然に眼にして、まあ大ざっぱにざっくばらんにヒラタク自慢げに書くと『注目』していたんだけれど、あっさり芥川賞取ってしまうんですねえ。

で、この人の文章ってーのは桑田佳祐が愛しのエリーを皮切りにデビューして結局今日の「つんく」にまで連なる楽曲と言われる歌詞作りにつながっているとも言えるしそうでないとも言えるわけだが、まあ小革命のような所であってそうでもないのないのかも知れないが、日本語の姿形が変わって来ているのですねえ。

で、偶然というかある意味決まっていたのだけれども広辞苑が新しくなってさいきんの日本語が追記されて収録されたわけだけれども、広辞苑というのが日本語の破壊もしくは言葉使いの破戒につながっている面もないわけではない。というかそーいう考えも出来なくはないみたいなー。

辞書というものが正しい日本語の記録物かというとそうではないのが辞書であってつまり辞書は世間の言葉の記録物にすぎないという当たり前の結論に至ったわけだけれども、すくなくとも広辞苑がビジネス文書や公用文や新聞の記事文章に与える影響は大きいのだからこれからの日本語はまあ、これまでの日本語でないといえば言えるし、これまでの日本語の系譜に連なるモノだとも言える。

ゲストの角福大三さんと丸橋本雄さんとそれに司会の新田八目さん生田六田子さんの4人の対談というシンブン紙の記事にぶつかると思わず便所の窓から身投げしたくなるけれど…  まあなんぼ身があっても足りんわね。

言葉だから生きていて書き手は死んでも死んだ言葉は無いわけだけれども、生きていればいいってーモンじゃーないのじゃないカネ。
生きていれば努力もしないでケータイのメールばかり読んでいるヤツも学校で哲学を真剣にお経みたいな教授が正しいと信じ込んで勤勉に習っているヤツも、無駄な読書は馬鹿のやることと信じて読書などしないヤツも昼寝は哲学であると主張して居眠りばかりしている貴重なアホも、人間は考える葦であるというのは間違いで、アシは歩くモノだから葦と足は本質的に同義でありつまるところ足で考えるのはやはり人間の本質かというとやはり本質は赤福のアンコにあり、決して冷凍などしてはならぬと言うつまらぬ結論に至るヤツも、まあ後半はほとんど自分のことだけれども、結局の所生きているのだから同じように扱われなくてはならぬと言う根底の偽らぬ『哲学的』基本的人権の思想も、役所が横一列が良いと言えばそうかあと思うヤツも役所が個性のない個人の集団で将来の本質的な社会のありようつまり理想的な推計ないしは推論の出来ないヤツが幅をきかせていると、まあこの世はそんなヤツらを大勢ステレオタイプにハンコぺたぺた押したように世の中に送り出すことを恥と思わない文化が普遍化するだけのことであるのだなあ。

こうやって書けば障がい者は社会のお荷物かという極端なことをつっこんでくるヤツもいるがそれとこれとは次元が違うのを平気で同じ次元で議論しようとするから薄っぺらなアーティストと自称するヤツにカネを払わなければならん羽目になるのだよ。

まあ、戦後の日本は多かれ少なかれこんなもんだよ。
ようするにタイトルにもあるけれど『先端で刺すわ刺されるわそらええわ』ねん。
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by kotendesky | 2008-01-17 22:19 | 冗舌亭日乗
2008年 01月 12日

みなもの会新春日本画展の私的メモ

出品者が多くなり作品が小さくなった。
3年前から注目している津田真知子さんの大きな作品を今年も観たかったが残念。サイズの制限で完成度が今ひとつだ。
躯幹と頭部の移行に解剖学的考察を重ねればもっと良くなるだろう。
彫刻作品をたくさん鑑賞することで解決策は見えてくるのではないか。
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by kotendesky | 2008-01-12 00:47 | ギャラリー放浪記
2008年 01月 12日

東山魁夷:怪異な大版画展

価格が高いのが魁夷大版画展のすべての印象。
はっきり言って版画に160万円は高すぎる。
画商が法外な値段を付けるから庶民は本物を持てないのだ。
文化を普及させる意味でも作家は高い価格を付けなくても生活できるよう税制などで保護すべきであろう。
今の状況では文化を鑑賞者が広めて行くという行為に向かわない。
芸術文化の窒息死だ。
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by kotendesky | 2008-01-12 00:41 | ギャラリー放浪記
2008年 01月 12日

木路毛五郎回顧展の私的メモ

C室の手袋シリーズが結局、この作家の一番表現したいものだったろう。
メランコリーすぎるがもっとも思索的である。
これを見て欲しい。

A室。
白いシリーズの表現は木路さんの意図した所なのだろうか。それとも線の思索を重ねた結果の到達点であろうか。決して本人の姿ではないように思える。

B室。
制作途中のキャンバスは痛々しい。作家のぎりぎりまで研ぎ澄まされた感性を創出する過程で、魂のあえぎ苦しみが聞こえそうな心を打つものがある。はっきり言ってこれは僕には重く、ストレートすぎる。
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by kotendesky | 2008-01-12 00:30 | ギャラリー放浪記
2008年 01月 02日

ことしもよろしくおねがいします

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by kotendesky | 2008-01-02 21:58 | 冗舌亭日乗