(ときどき)個展deスカイ!

kotendesky.exblog.jp
ブログトップ

<   2006年 07月 ( 4 )   > この月の画像一覧


2006年 07月 28日

顔料と格闘中(2)

f0019379_21014.jpg
                               【旭岳冠雪2006年バージョン(F30・未完)】

エスキースのために水性顔料と格闘中だ。
前にも書いたが、油彩用ピグメントとアクリル用メディウムを各種混合して、最適な組み合わせを模索している。
なぜこのようなことをするのかと言えば、アクリル絵の具ではもう一つ発色が意図に添わないからだ。
それと、絵肌の品位がアクリルでは今ひとつ不満だ。
それで、日本画用顔料を使用したいのだが、これは非常に高価だ。エスキースと割り切っているから安価な材料であることが条件だが、この点で油彩用顔料は、ひと瓶が約千円と手軽だ。
これにアクリルのメディウムを加えて紙の上に定着させる。乾くと顔料の粒子がマットになりすぎるのでグロスメディウムを薄く上乗せする。こうすると透明感が増す。
詳しく書くことはしないが、といって秘密にするほどのことでもない。まず、誰もまねしないだろう。こんなに苦労して発色を求める人はそうはいない。しかし、顔料と定着材(展色材)との関係と加える比率をとらえて行くことは油彩にも生きることだと信じている。
暑い夏である。こうしたことも夏を乗り切るために気分転換となる。来月の中旬から北海道は涼しくなるので本格的に制作に入るつもりだ。
さて、どんな作品が出来るでしょうか。
[PR]

by kotendesky | 2006-07-28 02:12 | (七転八倒)制作記!
2006年 07月 27日

孤独な格闘技

大阪の小林修一氏は、絵を描くと言うことは
「孤独な格闘技」であるという。
格闘技の相手は「自分自身」であるとも言う。
自分を乗り越えるために日々格闘するのだと言う意味らしい。

自分自身を乗り越えると言うことは、そう簡単に出来るものではないが、
それを成し遂げたときにまた、ある種の高みに登れるのであろう。

私は自然を相手に絵を描くと言うことは対象である自然が描かせてくれるものだという
考えを持っている。
絵を描くのではなく対象であるモチーフが自分に描かせてくれるのだと思うのだ。

1999年 「織部賞グランプリ」を受賞した華道家中川幸夫氏が、
あるテレビ番組で
偶然とはありがたいものですねえ」と
言っていることを興味深く聴いたことがある。
芸術を創作するということは、自己の造形観を手段によって表現することだが、
しばしば「偶然の所産」である場合もある。
ここで「偶然」とは素人がまぐれに上手い絵を描いたりすることとは次元が違う。
真の芸術家にとって「偶然」とは出るべくして現れる必然なのであろうが、
端的に言うと「偶然とはありがたい。」と言うことになる。

油彩でも水彩でも現場主義という言葉がある。現場で描くことがひとつの
最上であるという意味で使われることが多いが、私は「現場主義」には懐疑的
である。

現場では取材としてスケッチを描くわけだが、作品と言えるかどうかは人それぞれだ。
ある人は、現場での写生が生命を一番上手く描けると言うしあるひとは
現場でのスケッチは描くきっかけをとらえる手段だという。

実際に風景を目の当たりにしても、風景全体はとらえがたい代物である。
実に多彩でありスケールも絵より相当大きい。全体の構図も定まらない。
だから、現場でその一部を切り取りスケッチにまとめ、何カ所かの視点を
変えながら複数のスケッチを描くことが普通だ。
備忘のために写真にも残す。
事実として、風景画の構図は自分の美意識の中の設計図であって
実際の風景の比率ではないと断言できる。
気が付かないかも知れないが形をデフォルメして構図を広げたりのばしたりするものである。
絵の具で描くと言うことも突き詰めれば省略を繰り返すことであり、姿形を創作することである。
決してリアルなものではない。
それをリアリズムとして表現することはその段階にすでに作家の目が入り、
思考が入るものである。それを現場至上主義のように言いくるめてしまうと
作画の幅や奥行きを自ら狭めてしまう様な気がする。
好んで足かせをはめることもなかろうという気がする。

作品というのはその現場取材を基に描きたいものをすくい取りさらに頭に溶かし込み
その上澄みのほんの数滴のエキスを画面に定着させる作業の繰り返しのような
気がしている。

現場で仕上げる事も出来るし、仕上げると言うことをアトリエで様々な思考を巡らせながら
格闘して「表現する」ことの意味も否定しない。
むしろ、孤独な格闘技というのはこうしたアトリエでの七転八倒の作業を言うのではないかと
思うのである。

小説などの文章作家が、取材ノートをもとにして書斎で苦しみ
悶えながら身を削って言葉を紡ぎ出すように
絵画作家は色と形という言葉を画面に記録し続けるのだと思う。

「偶然とはありがたいものですねえ」とさらりと言いのけてしまう中川幸夫氏のように
肩の力が抜けたときに、邪心を捨てた本当に良い作品の一部が描けるのではないかと
しきりに感じるのである。

結局は「偶然」をものにするという少ないチャンスをつかめるかどうかが
その人の才能なのだと思うのだ。
[PR]

by kotendesky | 2006-07-27 01:15 | (七転八倒)制作記!
2006年 07月 17日

顔料と格闘中

絵画は『孤独な格闘技』であると大阪の小林修一氏は言う。
まさに、絵というものに自分の精神を込めるためには不断の鍛錬と技術の錬磨が必要であり『格闘技』であると思う。

最近は油彩の顔料を用いてアクリルの展色材と混ぜ合わせ、ワトソン水彩紙に定着させるという格闘を演じている。
どれもが初めての経験である。
水彩紙をパネルに張る水張りも、相当以前学生の頃にケント紙を張って以来のことだ。一番上手いときでもコート紙のポスターをパネルにしたくらいだから、水彩紙のような厚い紙はなかなか上手く張れない。十分水を含ませることは出来るが、あまりこするとクズが出てきて、十分に引っ張ることが出来ない。
それでも、何とか若い頃の経験で30号のパネルを張れたが、3号でも失敗することもある。キャンバスの大雑把さとは随分と勝手が違うようだ。
ワトソンの上にジェッソという下塗りを施していよいよ作画だ。

油彩用のピグメントを瓶から取り出してアクリルのカラーレスという透明な展色材と混ぜ合わせる。ホルベインの資料では顔料を少量の水で練り、そこに展色材としてジェルメディウムやグロスメディウムを水で薄くして加えるということが書いてある。
しかし、画用紙に直接薄塗りするにはこのカラーレスが向いているようだ。分散も速い。難点は値段が高い(50㏄で1000円)事である。もったいないので水で2倍に薄める。それでも顔料の定着はオーケーのようである。

これを日本画よろしく画面に薄く塗り重ねて行く。重ねることによって深みが調整でき微妙な色の変化が容易に出来る。油彩ではなかなか味わえない世界だ。
顔料は比重が違うので混色が出来ない。ここが良いところであり油彩とは違う難しさでもある。

油彩は展色材に粘性があり顔料の比重が違っても極端な沈殿が起きないが、水性展色剤の場合はこの沈殿が非常に問題がある。だから、原色を塗り重ねて微妙な色合いを出すことが主要な仕事になるようである。

ピグメント以外にも方解末という粉末を白として使う。こちらもカラーレスで解く。方解末とは方解石の粉である。キラキラと美しい絵肌になる。薄く画面にかけてやると上品な表面になる。

油彩を長くやってくると、どうしても解決できないおつゆ描きの重さが気になり出す。
私の画面は最終的におつゆ描きが左右するのでこの問題は深刻である。
色々な材料を試しながら次の個展の準備をするのが苦しくもあり楽しみでもある。

相撲で土俵下でけんかがあったそうだ。
力士は苦しい稽古に耐えて技を競う。その舞台が土俵という宇宙だ。その下とはいえ土俵の周囲でけんかをするなど言語道断だとは思うが、そこにつまらないナショナリズムを持ち出すのもいただけない。
何事にも精神が肝心である。表面に現れる事象ばかりを追い求め、精神を忘れては良い結果にはつながらない。相撲で言えば礼に始まり礼に終わる。
一見地味でつまらないと思われることでも、身につけると言うことは価値がある。目先の功利的な事ばかりにとらわれては決して人間が大きくならないと思われるのだ。狭い了見の人間が描く絵で初対面の人に感動をもたらすことが出来るだろうか。私はそう思わない。
[PR]

by kotendesky | 2006-07-17 17:44 | (七転八倒)制作記!
2006年 07月 04日

人事の季節

昨日、来年の統一地方選挙に4期目挑戦する、民主党の市議会議員のパーティーに出席してきた。
この方は、障害者の働く場を創り出すことをはじめとして、地域のそして札幌のために、誠心誠意努力を惜しまない人だ。
普段から尊敬している。自分もこうありたいと思っている。

来賓として、やはり次の選挙に西区から道議会に立起を予定している30歳の若い候補者に会った。自分も所属していた政治家を目指す塾生のホープである。ついにチャンスをつかんだという喜びが先に立つ。固い握手をして塾生みんなで応援する約束をする。
現職の女性道議会議員の応援も約束した。
みな、それぞれにすばらしい人達だ。その中に自分が今回入れなかったことが少し残念だが、選挙は少ないチャンスを根気強くつかむ日頃の努力が大切である。

私の場合、地域医療の充実と地域医療の開発そして地域量の医療と広域の救急搬送であるドクターヘリのバランスが大切だという事をテーマとして、候補者育成の研鑽会である「政治塾」に所属していた。昨年のことだ。

これに加えて自分にしか出来ないことは、文化のプラットホームとして美術や演劇や音楽を振興するというテーマもある。
ほんものの美術を見極める技術や知識は他の人より持ち合わせていると自負しているが、残念ながら、このようなテーマを前面に出すほど選挙は生やさしいものではない。
自分が候補者の公募に応じ、必要な審査資料を提出して、2次試験として面接も受けた。かねてから、面接だけは受けさせてもらいたい、その上で選ばれないのなら今回はあきらめると言っていたが、そこまでさせてくれた札幌戦略会議の皆様には感謝している。

自分には、選挙区での現職がそれぞれ立派な人で、そこに分け入って危険を冒すという考えまではない。選挙は個人プレーではなく、常に連携プレーなのだ。誰かが身勝手を押し通すことで選挙区での共倒れという最悪の事態にもなる。ヤケを起こして無所属で出てやるということは慎まなければならない。

公募に漏れたことで正直、あまり人前に行きたくない進境のこの頃であった。がしかし、会場で候補予定者の緊張したそれでいて未来への挑戦の気概に触れたときこのパワーが少しだけ自分には欠けていたなという反省もした。
民主党の関係者に会い、今回は断念するが挑戦は続けると言い回るうち、プラスのパワーが沸々とたぎってくる感覚になれた。支持者の人々の熱気の片隅でいつか自分も選挙に挑戦するという決意をさらに確かなものに出来たようだ。

このほかに、別な選挙区では私より若い女性が立起する。こちらもお世話になり良く知っている人なので是非とも当選してもらいたい。

選挙は基本的に選挙区から立候補して当選するというのが前提であるが、都道府県議会議員のように広い視野で政策を構築する分野は、一つのテーマを確実に実現する「比例代表制」を併用してもらいたいと思う。そのことによって少数のプロではなく、政策が確実な一般人の議員が活躍できるものと思う。

滋賀県知事選挙では現職が大差で破れるという波乱があったばかりだ。有権者に明確な政策を提示できる候補者が求められている。
[PR]

by kotendesky | 2006-07-04 01:16 | 冗舌亭日乗