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カテゴリ:小林英吉氏『草原』への旅( 4 )


2006年 10月 20日

夕張へ…(4)

f0019379_23464438.jpg 道展の搬入が終わり、さて小林英吉氏の『草原』探索の旅を再開しようとしていた。
一昨日このブログを見ると、コメントに小林英吉氏の文字が記載されていた。
『草原』を所蔵しているとのニュースである。
連絡方法はコメントしかない。早速コメント欄に連絡方法の指示を仰ぐ内容の書き込みをした。

急展開というのはこのことを言うのだろう。
日中、自宅に電話が入った。所有しているのは英吉氏の御兄弟である。そのご子息からのものだった。
電話は妻が受けた。おおよその事情は妻もこのブログで読んで知っていた。

夜、帰宅した私に再度ご子息からご丁寧な電話連絡があった。
江別市大麻にご自宅があり、作品の保存室も備えておられるとのことであった。
小林家は家族の絆がとても強いと言うことはこの連載の2回目に書いた。やはりその見方は正しかったと思う。
作品を保存していることも幸いだったし、保存のための部屋を用意しているというのも大画家の親類としてはとても立派なことだと尊敬する。

電話で聞いたおおよその次第は次のようなものだった。

私がたびたび道新の梁井朗さんの主宰する『北海道美術ネット』にコメントを描き込んでいることを英吉氏のご長男のご子息が読んだことに始まる。リンクを読み進むうち『小林英吉』氏や『草原』というキーワードが目に止まったらしい。リンクをたどって私のブログに行き着いたと言う。
インターネットはこうした人とひとのつながりが出来る便利な道具である。

『草原』を巡っては数奇な巡り合わせが多くある。
小林英吉氏が満州から引き上げて最初に住んだのは赤平市豊里となっている。この経歴は夕張市美術館の源籐学芸員から送られた資料に記載されていた。豊里は私の妻の実家があった所である。人口の多い町だった様だが妻の実家はそこでは少し名の知れた家だったのであるいは当時の交流があったかも知れない。妻の亡父は趣味で絵を描く人で、赤平時代に小林氏とは多少の交流は有ったようである。
さらに、私の絵の師匠はご長男と交流があったことは前に聞いていた。
私と英吉氏の関係も末のご子息と友人であることで、何度かご自宅にお邪魔したこともある。
一枚の絵画作品を通じて様々な方々と一気につながりが出来た。
今回の『ヤマのグラフィック 炭鉱画家の鉱脈展』が大きなきっかけとなったことで源籐氏とも交流を持つことが出来た。
さらに、長く交流が途絶えていた友人とも連絡が取れた。

小林英吉氏が心血を注いで完成させた氏の群像の傑作、『草原』を媒介にしてこれほど多くの方々から作品の所在探しにご協力を頂いたことは、美術という分野を愛しているからだろう。
本当に心底から感謝している。

後日、作品を拝見にお邪魔するお約束をした。
三十数年を隔ててついに作品と再会することになる。(つづく)

※夕張市美術館が来年三月をもって閉館の危機にあるというニュースを知った。何とか残せないものだろうか。維持費は年間五百万円ほどだという。寄付を集めてでも維持できないかと知恵を絞っている。 美術ネット別館
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by kotendesky | 2006-10-20 00:37 | 小林英吉氏『草原』への旅
2006年 09月 06日

夕張へ…(3)

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友人は、あるデザイン事務所の代表でありクリエーティブディレクターという地位にあった。
Yahoo japanで、セカンドライフのブログも書いている。
ファッション業界関係のデザインを数多く手がけ、総合美容サロンの店舗やコンセプトの立案や最近ではメンズサロンの企画運営会社の役員も兼ねているとの紹介だ。

あのバブル後の地獄を生き抜いた経営手腕に驚かされる。

いきなり
「写真をやっているか」
と訊いてきた。
写真は実用のものしか撮らないが、商売は写真とは切れない画像診断だ。が、しかしいわゆる世間で言うスチールとは違う。
友人が訊きたかったのはカメラを今でも離さず持ち歩いているかという意味だ。

あの頃、私はモノクロのプリントに凝っていた。当時住んでいた個人病院内にある一軒家の二階をすべて使っていたので、昼間でも暗室が使えた。
引き伸ばし機も、バットも薬品もいつでも自由に使える環境にあった。まだ、RCプリントが一般化する前だったので乾燥機もフェロタイプのものがあった。
こいつは電気食いで乏しい容量の安全器(ブレーカーの前のタイプ=ヒューズボックス)が幾度も飛んだ。

私はニコマートしか持っていなかったが、友人はF2を買った。
新宿のヨドバシとさくらやで何回か値段を交渉し、新宿西口本店で50ミリF1.4付きを私と一緒に行って買った。
そのカメラを私の『病院の家』に持って帰り、当時住んでいた自由が丘の彼のアパートにはその晩遅くに帰った。

その頃の金はなかったが若かった自由な時代が二人とも頭に浮かんだに違いない。
「発泡スチロールは捨てるなよ」
「質屋には箱付きでないと入れられないぞ」
といいながら金色の箱から二人で丁寧に取り出した。
友人は、私に向けて記念すべきシャッターを切った。
125だろうか、シュバッ、コロっというダンパー付きチタン幕シャッターの乾いた独特の音で私は彼のカメラの被写体一号となった。

現在、ファッションフォトグラファーとしても海外モデル撮りもこなす一流の腕を持つ彼に、今度スーツを着て撮ってもらおうと思っている。ダンヒルやブルガリのネクタイも何本か取り替えて、ぴたりと身体にあった谷のワイシャツと三越のオーダースーツを着て、靴は銀座YOSHINO-YAである 。
まさに50代のメトロセクシャルなモデルとして今の彼なら思いもかけない切り口で写してくれることだろう。

何せ、カメラ代を一部貸している。30年の利息を考えればそのくらいお安いもののはずである。
しかも、写真のあれこれを教えたのだから…

(つづく)
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by kotendesky | 2006-09-06 02:19 | 小林英吉氏『草原』への旅
2006年 09月 04日

夕張へ…(2)

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夕張市美術館のG氏(学芸員)の携帯に連絡を入れる。
小林英吉氏の作品は今回様々な調査を重ねてさっぽろ芸術の森美術館からも借用した由だ。
今回の企画はこうした準備に相当なエネルギーを費やした印象を受ける。
小林氏が長年過ごした赤平市のつてを方々当たったとのことである。お弟子さんの道展会員H氏もそのひとりである。
作品は、幸いにも赤平市の赤平文化会館(文化センター)にまとまった数が保管されているとのことである。そのほかには三笠市の市民会館にも数点あるとのことである。
とても手際よくG氏は情報を伝えてくれた。

『草原』がその中に含まれているとは考えにくいし、事実今回の展示では漏れているところを見ると、どこか別の場所にあるという公算が強い。
これは私の勘だが、作品はかならず手元にあるという気がしていた。
小林家は家族の絆が強い。赤平から札幌に引っ越したときも、アパートの何室かを家族で住居にしたほどである。札幌医科大学にほど近い西線のお宅に私は子息の部屋に泊まりに行ったりした。私が訪ねると友人は父親である小林英吉氏の部屋に連れて行き必ず私に挨拶をさせた。小林氏やその奥様とかしこまって会話をした記憶がある。
部屋はそのアパートで一番広かったが一角で画伯は『草原』の仕上げをしていた。地面の草色や空の一水会系独特のヴァイオレットが印象的であった。
そのうち、次兄が帰ってきて家族と一緒に食事をしていると最後に当時はまだ独身だった背の高い長兄が帰宅した。
従前から美術関係の客の多い家だったが、末弟の友人である私にも『いらっしゃい』というのが小林家の挨拶だった。
私はそのたびに姿勢を整えて挨拶をした記憶がある。
いずれにしても、絆が強くお互いに尊重している気配が感じられる家族であるというのが強く記憶に残っている。

しばらくして、小林家は長男の結婚を機にそれぞれの家を持つことになる。
友人は、近くの小さな部屋を借り直し、やがては私がその部屋を継ぎ、近くに借り直した当初住んでいたアパートの一部屋に友人は住んだ。さらに上京する友人のその部屋を継ぎ、ついには私さえもが上京して、お互いの住まいを行き来することになる。

そのような事情から、当時から作品の多くは友人の長兄が額縁関係の会社に勤めていたこともあってその方のお家に保管されているのではないかと考えた。

あいにく、ご長男のお名前は分からなかったので、私の『草原』探しの旅はあっけなく終わりかと思った。

ここまでで終わりになるのではと思い、夏の終わりの休みの今日は午後から、しばらく前に接触した車の修理をした。
悶々とした気持ちで自動車のボンネットを開け、一ヶ月も前に購入済みのライト回りの部品を交換した。最近は自動車の運転が億劫になった。齢五〇数年を経過すると移動に時間を費やしてもそれほど苦にならなくなって来てもいた。
「もう車はこれで終わりにしよう」
と思った。

これまで、車、カメラ、パソコン…とメカニカルなものが好きで、文化系の頭を切り替えて、理科系の学科が主体である学校に入学し直したのも、もともと機械いじりが好きだったからではないか。そう美術に行こうと思ったのも将来デザインの分野で工業系の仕事をしたかったからではなかったかと考えていたのだろう。車のデザインもメカニカルな知識無しには絶対にあり得ないなあと思ったりもした。
デザイン、美術、大学、受験というキーワードが短時間のうちに頭の中で火花をつなげたのだろう、そういえば小林英吉氏の子息とは友達で、T美術大学に通っていた頃のアパートに上京した時に行った記憶がある。お互い金のない学生だったから写真をするにしても引き延ばし機を貸したりした記憶もある。
ニコンF2を友人が買ったときにはうらやましい限りであった。

ちょっとインターネットでも検索してみたら案外近い業界に居るのではないかとふと思った。

意外にもすぐに氏名の検索で引っかかった。それはデザインではなく音楽のサイトでさらに友人欄に小さく表示されていた。
小林という名字はありふれているが、友人の名前は少し珍しい部類に入る。電話番号が記載されていた。デザイン事務所である。思い切って電話をしてみようと思った。これで駄目なら今回の調査は打ち止めという事になる。
スタッフに要件を告げてしばらくして電話の先には、あの頃空腹を抱えて行き来した懐かしい少し甲高い声がした。

30年間を挟んで、時間がついにつながったのである。

(つづく)
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by kotendesky | 2006-09-04 16:57 | 小林英吉氏『草原』への旅
2006年 09月 03日

夕張へ…(1)

f0019379_249471.jpg 夕張市美術館での『ヤマのグラフィック…炭鉱画家の鉱脈展』(9月8日月曜日まで)と題された企画展が開かれることを知って、私には心に密かに期することがあった。

私自身79年から81年まですでに斜陽の街と言われて久しかったこの炭鉱街の、とある病院に赴任したことがあり、そこでの経験が地域医療の様々な問題点を把握するスタートにもなった。
私にとって夕張をはじめとする炭鉱は自分の心の故郷のようなものでもある。
夕張は深い山の中にあるY字型の街である。現在の本町地区とは反対の南部というところに私の病院はあった。かつてはその先の鹿島というところにあった炭坑が閉山して同所に移転してからちょうど10年目という時期だった。

当時の私にとっては、新進の診療放射線技師として東京で学んだ最先端の早期胃ガン検診の腕を発揮するまたとないチャンスであった。実際にその機会に恵まれていなかった人々に3時間ドックを企画して実行に移すに当たり、M社の社有病院である慢性赤字の病院経営を立て直すためにもタイムリーな赴任であったことは自負している。
当時の胃ガンは発見が遅かった。まして北海道の田舎町の斜陽の病院で東京で行われて居ると同等の人間ドックを実施することは、過酷な炭坑労働を強いられている人々への恩恵であったことは間違いがなかったことと思う。
私の在任中、東大で開発され築地の国立がんセンターで完成されたバリウム検査である『胃二重造影法』は、診断の精度を飛躍的に高めた。
医師でない私は診断に踏み込むことは違法であるが、画像診断につながる詳細な関心部分の検査レポートを書くことは直ちに違法ではなかった。その方法はすでに東京では一部行われていたし現在はポピュラーな方法である。
医師は、その病変シェーマを用いて作成した検査レポートを参考に診断書を書き、疑わしい症例は北大などの総合病院に紹介するというシステムが出来かけた。
その期間で最大の成果は、同じ病院に勤務していた腹部外科を専門とする医師の早期診断を行って一命を取り留めたことからも言えると思う。名前は出さないが札幌の大学病院で度重なる検査を行っても発見できなかった胃ガンである。


その遙か前、私は小林英吉という画家の息子と札幌で知り合い、青春時代を共有した。やがて赤平にいた小林画伯は息子達の住む札幌に転居して親友のアパートの同じ階に何部屋かを借りて一家で住むということになった。
美大浪人中の私はたびたび夕食に誘われ奥様の美味しい手料理でもてなしてくれた。私はそうして小林英吉画伯の制作を目撃することになる。
画伯と奥様は末息子の友達の私に石膏デッサン用のカルトンとキャンソン木炭氏をセットでプレゼントしてくれるほど私をかわいがってくれた。
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上は小林英吉の『合奏』(1973年)である。小林は1910年に三笠市で生まれ1992年に札幌で亡くなっている。この絵の時代には群像をテーマに様々な傑作をものにし、一水会会員になり日展の常連作家であった。もちろん道展の古参会員であったし時代の要請もあり作品は右から左と売れていた。
『合奏』はカフェーとおぼしき室内の群像であるが、その後群像は野外のものとなり画面は明るい日差しのものに変わった。同じ年には『草原』(F100)と題された野外でアコーディオンに合わせてダンスを踊るロシア系の男女の姿となって第6回の『北海道秀作美術展』(道立美術館主催)に選抜されている。
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『草原』73年春季道展(73年第6回北海道秀作美術展図録より)


今回の夕張行きは、この小林英吉の傑作『草原』の所在を探す旅の始まりでもある。あいにく公休だった学芸員氏の連絡方法を受付で聞き、作品探しの糸口にしたいと考えた。
(つづく)

中山教道『空知最後のヤマ』(油彩)
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上村仙太郎『老牛』(日本画)
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白田良夫『黒い川』(油彩)
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畠山哲夫『ふるさとは雪』(油彩)
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小林政雄『夕張風景』(油彩)
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by kotendesky | 2006-09-03 03:15 | 小林英吉氏『草原』への旅