カテゴリ:ギャラリー放浪記( 50 )


2013年 04月 21日

光風会展

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会場前の役員打ち合わせ
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武石英孝さん「理科室」会友賞受賞
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堀木達也さん(一般・三重)漁港風景

光風会に来ている。
北海道から大勢出しており、委員に西田陽二さんがいらっしゃる。
武石さんは会友賞に輝いたし、高田健広さんは会友に推挙された。
日展系と言えば分かりやすい。
札幌美術学園の創立学園長笠井忠夫先生など北海道との繋がりは長い。
出してみたいと云う気にさせられた。
少しずつ絵画が見えるようになると、次の目標が見えてくる。
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by kotendesky | 2013-04-21 13:34 | ギャラリー放浪記
2013年 04月 20日

TOKYO strolling #2

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芸大構内の岡倉天心像。八角堂のような所に設置されている。

本日は、上野の芸大陳列館(彫刻部系の企画展)、芸大ギャラリー(収蔵品展・描かれた東京・小磯良平修復画(彼の休息/自画像とともに卒業買い上げ)、少し歩いて桜木の日展新会館で代表作家展。
谷中界隈を歩いて上野駅から地下鉄にのる。下町に詳しい人なら分かるが、この距離は動物園を一周する距離である。地下鉄を乗り換え飯田橋まで行き、後楽園交差点から上り坂を歩いて小石川のトッパン印刷博物館。
業務用インクジェットプリンターの施術を解説していた。オンデマンドのデザインをする人は必見の展示である。
原画やデジタルデータのどこをどう調整するかが分かる仕掛けになっている。

トッパン印刷までが地下鉄から距離があったのででタイムオーバー。
欲張れば、英から近い半蔵門のカメラ博物館にも行けないことはないが時間ギリギリで動くのもシンドイ。
ここで失敗をしたのは、トッパンから有楽町線江戸川橋までの方が近いので歩いたはよいが、
有楽町線は銀座線にも丸ノ内線にも接続が悪いのだ。
考えた末、永田町でホームをつっきって、延々と地下行軍を行いつながっている赤坂見附まで行くという方法だ。
一日パス(710円)を買っているのでどこで乗り換えようがよいのだが、面倒というのはこういう結果になる。
結局、眠気も襲ってきて銀座線で浅草まで荷物を受け取りに戻って、ふたたび銀座線でうとうとと新橋下車。そのまま地下の都営浅草線=京浜線の空港快速に乗車。眠りながら羽田に着く。少し早く付いた理由はビジネスラウンジでスマートホンの充電をする必要があったからだ。搭乗ラウンジでスタバのサンドウィッチを買って4階のビジネスラウンジでトマトジュースを大量に摂取して暖かいサンドウィッチを食う。
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by kotendesky | 2013-04-20 16:46 | ギャラリー放浪記
2013年 04月 19日

TOKYO strolling#1

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本日は、無難に光風会展と上野に戻ってラファエロ展。
乃木坂からひと駅乗って丸ノ内線に乗り換えて新宿三丁目の世界堂に行く。130号のキャンバスの切り売りの状況を見てきたが、VICARTしか事実上存在しない。
これでは、仕方がないので自分でフナオカを取り寄せて、張ることにする。最近の不況が極まったのか、昔のように切りキャンや張りキャンが自由に銘柄を選べなくなった。大作作家はインターネットを駆使しなければ高いものになる。

食時をしたり、東京都内を地下鉄で移動するので、時間がかかる。札幌のように10ヶ所とは行かない。
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by kotendesky | 2013-04-19 23:57 | ギャラリー放浪記
2013年 04月 01日

石垣渉 水彩画の世界展


水彩作家で売れっ子のイラストレーターでもある石垣渉さんが、道新ギャラリーで個展を開催している。
明日、2日火曜日午後5時まで、北海道新聞本社1階。


色に膨らみと深さが加わりました。水彩紙にしっかりと食い込んだ絵の具の耀きがぐっとよくなりました。
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by kotendesky | 2013-04-01 12:30 | ギャラリー放浪記
2012年 11月 13日

木嶋論(3) 終章

≪終章≫

ここまで書いてこの原稿を中断していたら、この秋に精神科医である上司との面談で、絵画制作の作業とは何かを話す羽目になった。そこでは自分の持っている形や色や空気感を認知することとそれを認知させることがシンクロすれば多くの人に作家が訴えかけられるのではないかという持論を展開した。これは自分が絵画の制作を通じて感得した境地であり、現段階で最も自分ではぴったり来る説明である。
ものを認知するという根元的な精神活動が結局は絵画という平面構成を見せるという行為に連動するものだということである。それはあたかも視覚を通じてバーチァルにそこにまさに存在していることを触れて確かめたかのように脳が錯覚して認知することを目指しているのである。
精神科医と話をしていて、多面的な現代社会において統合失調とは何かという感覚に包まれた。古典的な視覚と違い、現代は触覚、嗅覚、味覚や聴覚までもが再現されて経験されると統合するという行為は必ずしも普通のいわゆる正常なことではない。むしろ統合することの困難さの方が際だつのではなかろうか。
木嶋の一番弟子と言って良いであろう澤田範明(道展)は作品の肝をatmosphere(=雰囲気?)と端的に括って言うが、その考え方もまたこの観念的皮膚経験からの説明によって成り立つものだろう。

渡辺貞之(全道展)は、美術ペン137(2012年/SUMMER)の巻頭において、つぎのように述べている。
『…意識して「観る」うちに、何か強く一つの方向に引っ張られていく、つまりそこに目に見える事実的現象から、しだいに離れていく思いになります。セザンヌはそのことを「仮象」と呼びました。(後略)』
さらに
『写実というものを完全に達成するためには何が必要なのか。ゴッホは「描いているとそのものが以前には見えなかった色に見えてくる」といいました。  
写実の完璧化を目指していると。それが徹底するにしたがって自己崩壊していくような気がします。「見えるとおりに描く」という古典的視覚は、仮に同一化に達したと思われても、それはかえって倦怠を感じさせる作品になるだけです。写実の徹するところは、究極において、真実と虚構の断絶が亀裂として姿を現すのです。模倣とはリアリティに類似を目指しながら、どこかほんのわずかながら、対象の不在、現実への否定と無為を模索している。それは模倣の持つ本質的限界なのでしょう。「似ている」ということは終局において「どこか似ていない」ということなのです。』  -引用終わり

もうひとつの対極の考え方に見える野田弘志のリアリズムにおいては、私たちの自然を構成する何かの要素が無尽蔵であるという前提に立脚する。あるものを床でも壁でも人物でも立体としてきちんと写しとったら絵にしっかりとした本当の空間ができてひとつの現実が現れるという。その崇高な存在の価値が無尽蔵である現実空間があるからこそ、それに近づくにしたがって芸術的行為の意味や価値があるということを指す。

当初この文を書いていて、木嶋良治と渡辺貞之の文章が言い当てている焦点の深さにきらめくような共通点を感じた。それとともにリアリズムに迫る精神の働きは結局は「無尽蔵である自然」に対峙するとき、その存在の意味の深さを追求するという精神による現実の再構築であるという一点に意味が絞られるのだと言うことを理解した。
芸術である絵画においては、結局はこの世界の認識を深く思考しその全貌を知覚しながらわずかな亀裂に現れる崇高な美学を写しとってゆく作業なのではないか。その過程においてはゴールのない永遠のレースを走り抜く強靱な精神力が必要だという、ただひとつの解答である。
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by kotendesky | 2012-11-13 06:56 | ギャラリー放浪記
2012年 11月 13日

木嶋論(2)

(承前)
はたして木嶋良治は、その水面に映り込む建物の『影』に何を見たのだろうか。
水に映る影は見る角度にもよるが、充分に視程が長いと水辺の建物の影は実際の建物の高さより低く見える。
これは湖の岸から向こう岸の木や山の影を見た時に経験する事である。
しかし、木嶋のように充分に建物に接近しかつ自分が物置のひさしくらいの高さの何かの台によじ登ったり雪山に登ったりして描く時、建物の影は今度は実際の背丈より相当長くみえる。これは対象物に近づけば近づくほど2次関数的に長く見えるはずなのである。その長さは実際に写る運河の幅よりも数倍長く感じられたはずである。
「影は短く描く」という理屈は理屈として経験から木嶋はこの興味深い事実に気がついたのだろう。そしてそのことと実際の風景を画面上で構成することで、木嶋のイメージする沈黙の言葉を運河や建物から感じ取ったのだろうと思う。
1986年頃から木嶋が戻ってきた小樽運河の作品はむしろ建物の影を描くことが主目的に感じられるものになってゆく。
木嶋にとって水に映り込む影とは何か。この答えはおそらく誰にも見いだせないであろう。われわれにとって手掛かりになるのが木嶋自身が書いた文章である。そこにはつぎのような一文がある。
『影を通して眼に見えないもの、たとえば空気、音楽をどう表現すればよいのか、などと考えながら、耳を使って観ていくと、絵が動き出し、面白い発見があるような気がします』とか
『想像力を働かせると、描く側の意志だけではない、描かれる側の意志があるだろうと感じることがある。
この世界とは観念だろう。
時の経過を感じさせる石壁や建物の存在感、刻まれた文字、紋様、前景の水辺、雪原らはすべて”沈黙の言葉”をもっている。』
と書いている。(心の原風景-風土への賛辞 木嶋良治展図録 2012年市立小樽美術館発行)

同じ作家であれば描くと言うことの高みに登って行くとしばしば体験するが、描かれるものが描かせてくれるという感覚に到達する。観察を深めて行くと観察が思考の深みにはまりこみ、観念と混ざり合わさり、ついには描かれるものの意志がこちらの意志とシンクロナイズする感覚になる。このことが木嶋の言う沈黙の言葉なのであろう。
サイモンとガーファンクルは、観念を巡らせる若い高校生の自分を暗闇の旧友と表現している。大学を卒業しスポーツも試験も優秀な成績を収めた激しい陽の当たる時期を終えて、就職という大人の世界への行き先にとまどった時、この古い暗闇という友人に再び会いに行く。その映像は脳の中に植え付けられたと表現され、沈黙の音に触れるのである。
木嶋の言う描かれる側の意志はまさにサイモンとガーファンクルの言う沈黙の音と同義であるのだ。
そしてこれは重要な点だが、木嶋良治という画家の規定である。具象作家もしくは写実作家という規範にはあてはまらないと筆者は高校生の時から感じてきた。抽象作家と決めつけることはできないがそれに近い空間構成の作家だという事である。画面上での構成は写生ではなく一度頭の中で抽象化しそれを独自の空間把握や美意識でパーツを構成して行くようである。記憶や体験の入り混じった単なる具象の再現でない事を意識しているのだ。
それが60年代後半から80年代にかけて木嶋が実感してきた世界観であり木嶋良治の意識なのである。
具象とは何か、写実とは何かと考えがちだが、実在世界を表現する時に観念のない作品というものはあり得ないだろう。存在の意味するところは或る意味で観念的なものであり観念が存在表現を意味づけるのである。観念の通過なくして絵画にしろ音楽にしろ作品の成立はあり得ないし、自己の写り込む世界がむしろ自分の世界なのであって無意識に人間は観念をないまぜてものを見ているのであろう。
観ると言うことが実は脳の意識する自己表現であり、総括的に見て感じるという技なのである。それを文字や言葉や絵で表現する時、それぞれの写実は観念という思考作業抜きに表現しきれない。(つづく)
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by kotendesky | 2012-11-13 05:23 | ギャラリー放浪記
2012年 05月 28日

木嶋良治展

心の原風景 -風土への賛辞
市立小樽美術館

小樽美術館で先週末26日(土)に開会セレモニーがあって出席してきた。
木嶋先生は言わずとしれた北海道美術界の重鎮だが、本人は派手なことが嫌いなタイプなので今ひとつ正当な評価を受けていないと筆者は感じる。
もっと高い評価を受けても良いと思うが、それは今となってはみんなが考えるべきことで、弟子の自分がいくら力説したところでひいき目に見ているという受け止め方になろう。

木嶋先生が60年代後半から70年代のことを書いている。
『…新しいグループの誕生も活発で、前衛を旗印にいろいろな名称でグループ展や個人的な発表が活動的に行われていました。壁面には抽象画が多くなり、大作が増え、壁面だけでなく、空間、床までも占める作品があったり(中略)既成画壇に問題を投げかけ、あたかも新しい勢力ででもあるかのように報道され、あるいは行動をして人びとに伝達されました。道展の会場に抽象の部屋が出来たのもこの頃です』
木嶋氏はその60年代70年代の渦中に身を置くわけである。いうまでもなくこの時代は同期の米谷雄平らが道展に居ながらにして新しいグループを結成し、自律的に大丸藤井などのギャラリーで作品を発表するわけである。
誤解を受けるといけないから断っておくが、木嶋氏は亡くなった米谷雄平さんの親友である。ふたりの仲の良さは周知のモノである。筆者はある場所で同じ風呂につかりながら米谷雄平さんが『(木嶋氏の)人生で一番良い年齢の時に本を作ったな』と画集の編集者である筆者にうれしそうに話してくれたことをおぼえている。そのほかにも、いわば前衛あるいは現代美術のグループに属していた多くの作家も木嶋氏との交流は特別なものだったと言える。人を引きつける魅力があるのである。
閑話休題。
その渦中に美術家として存在し、かつ北海道教育委員会の教育課程趣旨徹底実務の委員など、いわば体制側の役割を引き受けたわけだ。この役割は当時は誰かが引き受けなければならないいやな役目だったものである。その仕事は文部省の方針を美術教育の中に趣旨徹底させるという、先の木嶋氏の文章からにじみ出てくる時代の気分を考えればとても困難な仕事だ。それはちょうど今の時代に『原発はエネルギー安全保障から考えて2割は必要だ』ということを理解させようとしていることと似ている。
師範学校の系譜である特美の一期生として、在札の大規模道立高校の教諭としても断れない役回りだったのだろう。

その、孤立感は教師としてあるいは公務員としてその場に身を置いてみなければ分からないだろうが、今日の閉塞した社会で政府として改革を実行する居心地の悪さと非常に似ているものだろう。
木嶋氏はそのような中でさらに小樽運河の埋め立てという問題に直面する。
埋め立ては、青春時代に病をいやした中で心の投影でもあるかのような運河の水面に沈黙の言葉を感じ取ったようなナイーヴな感情に打ち付ける激しい波だったに違いない。
運河論争を避けるようにこの頃、しばらく釧路やオホーツクに取材のフィールドをもとめる。

本展で入り口を入ってすぐの右側、すなわち順路で言えば一番先にこの時期の『幣舞橋』(1974年)がかかっている。
図録の一番最初もこの作品である。
この絵は昭和49年の第49回道展に『橋』として出品されている。同じ年の二紀展にも同じ題名の絵が出品されているが、筆者が記憶している限りでは多分同じ作品だろうと思う。(後年若干の加筆がある)
多くの鑑賞者は意外に思うかもしれないが筆者は研究者として木嶋良治論を進める上で、個人のエポックメイクである作品はこの釧路の幣舞橋をデザイン的に描いたこの作品だろうと思っている。
このことを、この企画が進み始めたころに小樽美術館側に伝えたが、はたして美術館はやはりこの作品の重要度を認めたことに変わりはない。
この絵を境に木嶋氏はさらに深く哲学的に沈潜して行くのである。
(続く)
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by kotendesky | 2012-05-28 23:10 | ギャラリー放浪記
2012年 03月 18日

阿部典英のすべてでゲスト秋山祐徳太子

アーティスト・現代美術家
阿部典英のすべて
北海道立近代美術館

札幌東高、学芸大学札幌分校特美卒
東高時代は加納守拙氏に前衛的書道を学ぶ。
美術部は退部。当時の美術部顧問指導教員は伊藤正氏。
阿部氏の抽象画を受け入れなかった。
伊藤先生が退部を認めた先見性はえらい。
その退部から現在の阿部芸術は出発したと思われる。
展覧会ではその書も展示される予定。


そしてこれは必見ですねえ
★トーク&ジョーク・ショー「走るブリキ男と工作少年、大いに語る」
日時/2012年4月14日(土)14:00~16:00
トーク/秋山祐徳太子(美術家)、阿部典英
会場/講堂(240席・先着順) 参加無料


これは必見です。
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by kotendesky | 2012-03-18 13:06 | ギャラリー放浪記
2012年 02月 20日

道展会友 清武昌さんの個展

急告 明日(21日)から日曜まで。
さいとうギャラリー

あまり告知されていないみたい。筆者もスカイホールのハガキで初めて知った。

道都大学からのコピーです。

-個展- 
タイトル: 「清武 昌 個展 -しじまの余韻に-」
参加者-清武 昌(デザイン学科4年)
日時-2012年2月21日(火)-2月26日(日)10:30-18:30
     (最終日17:00まで、月曜休廊)
場所-さいとうギャラリー
     (札幌市中央区南1条西3丁目 LA GALLERIA 5F)
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by kotendesky | 2012-02-20 20:20 | ギャラリー放浪記
2011年 12月 09日

響きのかたち  高橋 靖子  瀬川 葉子 二人展

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 抽象作品は立体や平面の区別無く、鑑賞者に対して作家の何らかの心理的な働きかけがあり、鑑賞者もまたそれに共鳴する必要がある。
心理の共鳴ないし呼応は、作者と鑑賞者の相互作用でなくてはならないと思う。そのどちらかが上手く作業しなければ、作品の意味が低下することは言うまでもないだろう。
情念の想起、交錯、反発、受容、理解、共鳴あるいは共感が行き交って初めて抽象的な満足感が得られるものだろう。

『高橋靖子×瀬川葉子』という組み合わせの展覧会の企画に接したとき『美術界の住人』はだれしもが『はた』と膝を打ったことだろう。この企画はギャラリーエッセを舞台として美術評論家柴橋伴夫さんが仕掛けたものだ。大変な好企画である。
筆者が案内ハガキを受け取ったときの心のときめきはまさにこの作家二人の組み合わせの妙にある。柴橋伴夫という評論家の感性の鋭さがこの展覧会の成功の50パーセントの役割を果たしている。
久しぶりに開幕をわくわくして待ち望む気持ちの高ぶりを感じた。

ふたりの作家の年齢は10年以上かけ離れているが、そのギャップはほとんど感じられない。いずれも点と線を縦横に交錯させながら日常の意識の伝達や思考あるいは変遷という表現を通じて生活の豊かな精神性を思い起こさせてくれる。あるいはその共感はそれぞれの作家の生活上の共通する課題があるのかもしれないが、少なくとも作品に『どうだ』というようなさもしい根性が感じられない。淡々と自分の意識世界の表情を見るものに提示するだけなのだ。

高橋靖子さんは点(ドット)と線(ライン)を主要に用いて言葉という文字を控えめに配置している。文字を読まれることをほとんど拒否して意味の伝達はその色とパターンという表現に昇華させている。
瀬川葉子さんもまた、ドットと鋭いカッティングのラインを巧みに織り込みながら抑えた色彩と画材の多様さを提示しつつ見るものに感性の刺激を与える。筆者は作家の端くれであるからその作品から受けるinspireは相当なものがあり、日常の短時間に作品を作り続けるというstageの提案を非常に鋭く感じるのである。
紙と画材と用具の多様性はこの作家の得意とするところだが、その提案は自分もこうあるべきだというきっかけを非常に強く受けた。
冒険をあえて犯して言えば、『瀬川葉子×一原有徳』とのコ・ラボレーションを見てみたいという高みに達しているのである。

高橋も瀬川もそして一原も幻視的世界観である独特の共通項はあるだろうがその網膜に写った幻影は特徴的に相違する。しかし幻影が作品として提示されるときにこの3名のあやういほころびの美学に現代社会が直面している当惑を鋭く投影していると思う。


ギャラリーエッセで 12月11日 日曜日まで
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by kotendesky | 2011-12-09 22:05 | ギャラリー放浪記