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2008年 01月 19日

日本口語訳   『センタンデ サスワササレルワ…』

ああこの形而上が私であって形而下がわたしであるのなら、つまりここ!! この形而中であることのこのわたくし!! このこれのなんやかや…

と言っても『栄通さん』の文ではありませんが(笑)、芥川賞作家の川上未映子さんの文章の一部です。
この作家の名前について僕は、少し自慢げに聞こえるかもしれませんが、雑誌『広告批評』1月号の対談記事で事前知識なしに注目していたのですねえ。
つまり、冒頭挙げた文節が続くのですが、こうした作品が今時はあっさりと芥川賞に選ばれるのですねえ。実に驚いたことです。

この川上さんという人の文章というのはちょうど桑田佳祐が登場したあたりから日本の歌謡詞がじつは大変貌を遂げるのですけれど、それがそう最近は『つんく』の作詞まで連綿と連なるわけです。
だからそうした作詞の世界の小革命があってそれが散文に続き、文学(詩、小説)に育ってゆくのですね。じつに日本語の変貌というか姿形が変わったものです。

偶然といいますか、出版社としては決まっていたのでしょうが広辞苑が改訂されて最近の若者言葉が収載されたわけです。
 広辞苑というのが日本語の破壊もしくは日本語使いのしきたりの破戒に僕はある程度貢献していると思っているのですけれど、であれば辞書というものが正しい日本語の宝庫かと言えばそういう命題は簡単にはできないわけで結局は世間言葉の引き出しに過ぎないという至極当たり前の結論に帰着するわけです。
しかし、ビジネス文書や公用文や新聞の記事文章などに与える影響はきわめて大きいのだけれど、あまり広辞苑が日本語を破壊するなどと言う意見は聞いたことも見たこともないですね。これからの日本語は皆さん感ずるところのこれまでの日本語ではない、けれど日本語調のことばにはつながる言葉には違いないのですが、しかしそうとはいい切れない何となくきまりの悪いものになって行くと思います。

『ゲストの角福大三さんと丸橋本雄さんとそれに司会の新田八目さん生田六田子さんの4人の対談』という新聞の記事に出くわすと、これはいかんなあと思うのですけれど、まあその度に驚いていては身が持たないというものです。

言葉は生きていて書いた本人は死んでも言葉が死んだということはないわけですから、活きの良い悪いはあるにしても生きていれば勉強の努力もしないで公立高校に通っている奴らも、哲学をお経のようにしゃべる教授の講義を眠らずに聞いている感心な学生でも、読書は精神の葬式であるという気の利いたことを主張する無類の阿呆も、昼寝こそ哲学であると言って居眠りばかりしている貴重な馬鹿も、人間は考える葦であるという事からウォーキングこそシンキングと本質的に同義だと短絡的に結びつける素敵な紳士も、赤福のアンコは本質だとかのたまうような人々においても、まあ後半はほとんど自分のことだけれど、結局のところ同じように扱わなくてはならぬという事になるわけですな。

例えば基本的人権というようなあまり深く考えないような言葉でも、役所が横一列でよいと言えばそうかなあと思うような人々が、役所の人間が個性のない個人集団で将来の普遍的な推計ないしは推量が損なわれていても議会があるからとか選挙で選ばれた首長が居るからと言うきわめて曖昧な根拠で役所を信じていると結局はステレオタイプにはんこをぺたぺた押したような人間を大勢世の中に送り出すような時代になりそうな気がするなあ。

まあ、戦後の日本は多かれ少なかれこんなものかも知れないと思うのです。
要するにタイトルにもあるけれど『先端で刺すわ刺されるわそらええわ』ですねえ。
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by kotendesky | 2008-01-19 01:39 | 冗舌亭日乗


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