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2007年 09月 08日

父の鉛筆

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亡くなった親父のアトリエに入った。
机の上に使いかけのスケッチ鉛筆が置いてあった。
今私が使っているものと同じ輸入銘柄だ。軸のデザインが微妙に違う。

親父は国鉄を定年退職してから新道展に入選していた。
5年くらい新道展出品を続け、同時に道展に挑戦していた
時期があったことを葬儀で知った。
私は上京して学生だったから最近までそのことを知らなかった。
残されたキャンバスの裏を見ると当時の出品票が茶色く変色して貼られている
幾枚かの作品が出てきた。いずれも手稲鉱山の洗鉱場をモチーフにしていた。

家の玄関には100号の作品を展示できる壁があった。退職金で家を増築したとき、
12畳ほどの板敷きのアトリエと広い玄関を作った。
油彩100号は何枚か掛け替えたように記憶している。

親父は屋敷にカネをかけることをいとわなかった。
白い漆喰の壁、板敷きのフロア、ガラスの棚、室内のドア、出窓、中庭に面したパティオドア、
ソファの応接セットと家族の食卓テーブル。
木々に囲まれた屋敷は、昭和30年代半ばの建築としてはかなり贅沢だった。

しかし、真のねらいは私たち4人の子どもたちに部屋を与え学習の環境を
整えるということだったのだろうとあとになって長兄から聞いた。
長兄は道教育大特美、秀才の次兄は札幌西高から北大理類に入った。
姉は道立の商業高校に進学しいずれも勉学に励んだようである。
私をのぞく兄姉は親父の期待に応えそれぞれの道を歩んだ。

高校を卒業して進路に迷った私が、上京して青春時代を彷徨している頃に
親父は情熱をもって絵を描き続けていたことが自分には誇りだったに違いない。
落ちぶれる快楽に向かわなかったことが親父の無言の指導だったようだ。
うるさく勉強しろとは言わなかったが、自分の背中を見せることで末の息子に
人生の大切な勘どころを伝えたかのようだ。

今、私はもうじき親父の定年の年齢を迎える。そして本格的に絵を描き始めた頃も
親父が本格始動した年齢の時分と同じである。道展に挑戦していることも同じだ。
不出来な末っ子だったに違いないが、同じような道程を歩んでいることを心地良く感じる。
『税金で勉強させてもらったのだから、少しは人様の役に立て』
と言われているようで苦笑するこの頃だ。

忙しい最近だが、親父の期待に最後は応えようと思う。
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by kotendesky | 2007-09-08 00:41 | 冗舌亭日乗


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