(ときどき)個展deスカイ!

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2006年 12月 21日

青島だア!

青島幸男さんが亡くなった。
草創期のテレビの台本作家、作詞家、タレントなどテレビを巨大なエンターティンメントとして引っ張った功績は大きい。
同じ時期に永六輔、大橋巨泉。
青島氏はテレビ番組を作るばかりでなく、料理研究、理容師、ネクタイデザインなどおよそその時代の日本の平均的サラリーマンが求めていた興味分野をいち早く感知し自分で実行してみるという庶民感覚が抜群の人だった。
68年頃は昼のワイドショーで公開番組にもかかわらず全共闘学生を公開ホールに大量に呼び、野坂昭如、大島渚、小田実などと討論させた。
今考えれば、当時の全共闘学生はまだ牧歌的だったのだろう。最も嫌悪するはずのマスコミに大挙して出演し、制作者の意図に沿ったヤジを飛ばした。最もテレビ的なところは意図しない映像を茶の間にそのまま流すことだと信じる私は、ひそかにミーハー的全共闘学生を信用しなくなっていった。
その後の東大安田講堂の事件には東大生はほとんど居なかったという事実からも、このあたりから全共闘の変質が始まっていたのだろう。
青島氏はワイドショーの知名度から自宅マンション1階の部屋から参議院選挙に立候補する。
選挙公報と政見放送だけで全国区を戦い1位の石原慎太郎に次ぎ2位で当選した。
選挙運動を行っていれば1位は間違いなかったが、公営選挙だけで2位当選したことはその後の青島氏の選挙姿勢を形作る上で確信となった。のちの東京都知事選挙でも同じ姿勢を貫いた。
無所属の市川房枝さんらと共闘し、大阪選挙区の横山ノック、沖縄の喜屋武真栄氏らと二院クラブを結成し(この部分asahicomの記事は間違い)金権体質を批判し「佐藤首相は男めかけ」の迷セリフを生み出す。この発言は物議をかもし、問責問題に発展する。

時代の寵児ではあったがその基本は歴史に残る仕事をしようという哲学がある。ちゃらちゃらした話題を作るより地味でも地面に足の着いた仕事を着実に進めることの大切さを持ち続けたそうだ。

昭和二八年六月生まれの私は、民放テレビとともに人生をスタートし歩んできたが、草創期のジャーナリズムの批評精神にあふれていたテレビの現場が現在のように皮相的、興味本位の薄っぺらな「ジャーナリズム」に満ちあふれる低感覚の記者にうんざりとしていることも事実だ。

「青島だア、文句あっか」という青島氏のこの言葉には、たとえ地味でも批評精神にあふれた切り口で権威と呼ばれる化け物の皮を剥がすことに情熱を掛けた氏の気構えが宿っていると信じている。
享年74。ご冥福をというにはふさわしくないお祭り男の静かな死である。
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by kotendesky | 2006-12-21 01:08 | 冗舌亭日乗


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