(ときどき)個展deスカイ!

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2006年 09月 15日

何をやっていたのだろう…

自分は何をやっているのだろう。
絵が描けないと言うことは自分が描きたいものに迷いがあると言うことだろう。
前にも触れたが、ヤナイアキラさんの北海道美術ネットで、小樽の小川清さんの回顧展について論評していた。
少し引用しよう。

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 その画風は、茶系の使用が目立つというほかは、とりたてて奇をてらったところのない、
ごくオーソドックスなものだ。
 また、転機といえるほどの、画風の変遷などもない。
 それが持ち味だからこそ、地元の雑誌の表紙などを、長年にわたって担当してきたのだろう。
 けっして美術の最先端にいるのではないが、そのマチの人に慕われ、
大衆的な人気を得る画家もいるのだ。
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ヤナイさんの本意はこの部分ではないが、この言い回しが誤解を与えるといけないので少し補足する。

私の知るところでは、小川さんは小樽の運河が3分の2くらいに縮小されると決まった時にも決して小樽をあきらめなかった。いや、生地小樽を愛してやまなかった。
運河が小樽の街の情緒のシムボルの一つであることは誰しも認めるが、それまで運河を描いてきた人の幾人かが、一時期他のモチーフを求めてフィールドを変えた。
そのような時代の流れの中で小川さんはマチの通りの美しさや屋根の連なりなどを独特の縦と横の鋭い区切り方で切り取ることを頑固にといって良いと思うがこだわりを持って描き続けた。
運河論争を巡っては多くの人々が悩み抜いたし少なくない人が挫折感を味わった。それほど小樽運河の埋め立ては小樽の将来を巡る一大事だったのだ。
いま、『観光小樽』が小樽と言うマチの未来にとって賢い選択だったのかどうかは早々に結論を出せないが、少なくとも通りを歩いていて台所の臭いや朝顔のツルが窓の格子に絡まるとかテレビの音や住人の会話が聞こえるという事は少ない。
窓がアルミとなりエアコンが普及して何処の家も通りに向かっていきなり家の中を覗かせるという開放感は感じない。

私の青春は東京の下町で過ごした。そこではかつての小樽のように入り組んだ小路の所々でシュミーズのばあさんが団扇で縁台に座っていたり、家の中から長唄や三味線の稽古をする音が聞こえてきたものだ。煙管でたばこを吸う人がまだ多くいた時代でもあった。
バターピーナッツを量り売りで売っていたのも懐かしい。

小樽も似た雰囲気があった。
私の母は小樽で少女時代を送った。富岡の教会で遊んだという話を随分と聞いて育った。
マッキンノさんの娘さんと友達で家に遊びに行ったと言うことも訊いたことがある。

そうした情緒といえると思うが、マチの呼吸がだんだんと消えてごく普通の地方都市に変貌することは小樽のひとにとって、はたして良かったのだろうか。部外者の私には結論が出せない。

小川清さんは私より14,5歳も年上だから私が高校生の頃は道展や一水会の新進の実力派として美術ペンか21ACTか道展の図録かは思い出せないが、特集が載ったこともある。ちょうど私の先生である木嶋良治さんと同年代だったのだろう。そのような訳で若い頃からあこがれの画家であった。
なにより、鋭く垂直の筆跡が画面を仕切り、水平の線や色面の区切りがピシッと直線であるところにこの画家の持ち味がある。
決して派手ではないがかといって渋い訳でもない。むしろどきっとするほど厳しい区切り方をすることに新鮮な刺激を受けたものだ。

小川さんは、そのままの境地で今日まで来た。
『何を描くか』や『描きたいのは何か』という言及はこの人には全く必要がない。
迷いがなく自然に描くことが小川さんの変わらない姿勢なのだと思う。

やはり風景を描くということは、画面を作ることではなく何を描きたいのかが明確に動機となって始まるものだと言うことに意を強くした。
そうした境地になってはじめて自然が描かせてくれるものだという基本的なことを自分は少し忘れていたのではないかと反省している。

北海道美術ネット別館『小川清展』
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by kotendesky | 2006-09-15 00:56 | (七転八倒)制作記!


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