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2006年 09月 04日

夕張へ…(2)

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夕張市美術館のG氏(学芸員)の携帯に連絡を入れる。
小林英吉氏の作品は今回様々な調査を重ねてさっぽろ芸術の森美術館からも借用した由だ。
今回の企画はこうした準備に相当なエネルギーを費やした印象を受ける。
小林氏が長年過ごした赤平市のつてを方々当たったとのことである。お弟子さんの道展会員H氏もそのひとりである。
作品は、幸いにも赤平市の赤平文化会館(文化センター)にまとまった数が保管されているとのことである。そのほかには三笠市の市民会館にも数点あるとのことである。
とても手際よくG氏は情報を伝えてくれた。

『草原』がその中に含まれているとは考えにくいし、事実今回の展示では漏れているところを見ると、どこか別の場所にあるという公算が強い。
これは私の勘だが、作品はかならず手元にあるという気がしていた。
小林家は家族の絆が強い。赤平から札幌に引っ越したときも、アパートの何室かを家族で住居にしたほどである。札幌医科大学にほど近い西線のお宅に私は子息の部屋に泊まりに行ったりした。私が訪ねると友人は父親である小林英吉氏の部屋に連れて行き必ず私に挨拶をさせた。小林氏やその奥様とかしこまって会話をした記憶がある。
部屋はそのアパートで一番広かったが一角で画伯は『草原』の仕上げをしていた。地面の草色や空の一水会系独特のヴァイオレットが印象的であった。
そのうち、次兄が帰ってきて家族と一緒に食事をしていると最後に当時はまだ独身だった背の高い長兄が帰宅した。
従前から美術関係の客の多い家だったが、末弟の友人である私にも『いらっしゃい』というのが小林家の挨拶だった。
私はそのたびに姿勢を整えて挨拶をした記憶がある。
いずれにしても、絆が強くお互いに尊重している気配が感じられる家族であるというのが強く記憶に残っている。

しばらくして、小林家は長男の結婚を機にそれぞれの家を持つことになる。
友人は、近くの小さな部屋を借り直し、やがては私がその部屋を継ぎ、近くに借り直した当初住んでいたアパートの一部屋に友人は住んだ。さらに上京する友人のその部屋を継ぎ、ついには私さえもが上京して、お互いの住まいを行き来することになる。

そのような事情から、当時から作品の多くは友人の長兄が額縁関係の会社に勤めていたこともあってその方のお家に保管されているのではないかと考えた。

あいにく、ご長男のお名前は分からなかったので、私の『草原』探しの旅はあっけなく終わりかと思った。

ここまでで終わりになるのではと思い、夏の終わりの休みの今日は午後から、しばらく前に接触した車の修理をした。
悶々とした気持ちで自動車のボンネットを開け、一ヶ月も前に購入済みのライト回りの部品を交換した。最近は自動車の運転が億劫になった。齢五〇数年を経過すると移動に時間を費やしてもそれほど苦にならなくなって来てもいた。
「もう車はこれで終わりにしよう」
と思った。

これまで、車、カメラ、パソコン…とメカニカルなものが好きで、文化系の頭を切り替えて、理科系の学科が主体である学校に入学し直したのも、もともと機械いじりが好きだったからではないか。そう美術に行こうと思ったのも将来デザインの分野で工業系の仕事をしたかったからではなかったかと考えていたのだろう。車のデザインもメカニカルな知識無しには絶対にあり得ないなあと思ったりもした。
デザイン、美術、大学、受験というキーワードが短時間のうちに頭の中で火花をつなげたのだろう、そういえば小林英吉氏の子息とは友達で、T美術大学に通っていた頃のアパートに上京した時に行った記憶がある。お互い金のない学生だったから写真をするにしても引き延ばし機を貸したりした記憶もある。
ニコンF2を友人が買ったときにはうらやましい限りであった。

ちょっとインターネットでも検索してみたら案外近い業界に居るのではないかとふと思った。

意外にもすぐに氏名の検索で引っかかった。それはデザインではなく音楽のサイトでさらに友人欄に小さく表示されていた。
小林という名字はありふれているが、友人の名前は少し珍しい部類に入る。電話番号が記載されていた。デザイン事務所である。思い切って電話をしてみようと思った。これで駄目なら今回の調査は打ち止めという事になる。
スタッフに要件を告げてしばらくして電話の先には、あの頃空腹を抱えて行き来した懐かしい少し甲高い声がした。

30年間を挟んで、時間がついにつながったのである。

(つづく)
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by kotendesky | 2006-09-04 16:57 | 小林英吉氏『草原』への旅


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