(ときどき)個展deスカイ!

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2006年 07月 27日

孤独な格闘技

大阪の小林修一氏は、絵を描くと言うことは
「孤独な格闘技」であるという。
格闘技の相手は「自分自身」であるとも言う。
自分を乗り越えるために日々格闘するのだと言う意味らしい。

自分自身を乗り越えると言うことは、そう簡単に出来るものではないが、
それを成し遂げたときにまた、ある種の高みに登れるのであろう。

私は自然を相手に絵を描くと言うことは対象である自然が描かせてくれるものだという
考えを持っている。
絵を描くのではなく対象であるモチーフが自分に描かせてくれるのだと思うのだ。

1999年 「織部賞グランプリ」を受賞した華道家中川幸夫氏が、
あるテレビ番組で
偶然とはありがたいものですねえ」と
言っていることを興味深く聴いたことがある。
芸術を創作するということは、自己の造形観を手段によって表現することだが、
しばしば「偶然の所産」である場合もある。
ここで「偶然」とは素人がまぐれに上手い絵を描いたりすることとは次元が違う。
真の芸術家にとって「偶然」とは出るべくして現れる必然なのであろうが、
端的に言うと「偶然とはありがたい。」と言うことになる。

油彩でも水彩でも現場主義という言葉がある。現場で描くことがひとつの
最上であるという意味で使われることが多いが、私は「現場主義」には懐疑的
である。

現場では取材としてスケッチを描くわけだが、作品と言えるかどうかは人それぞれだ。
ある人は、現場での写生が生命を一番上手く描けると言うしあるひとは
現場でのスケッチは描くきっかけをとらえる手段だという。

実際に風景を目の当たりにしても、風景全体はとらえがたい代物である。
実に多彩でありスケールも絵より相当大きい。全体の構図も定まらない。
だから、現場でその一部を切り取りスケッチにまとめ、何カ所かの視点を
変えながら複数のスケッチを描くことが普通だ。
備忘のために写真にも残す。
事実として、風景画の構図は自分の美意識の中の設計図であって
実際の風景の比率ではないと断言できる。
気が付かないかも知れないが形をデフォルメして構図を広げたりのばしたりするものである。
絵の具で描くと言うことも突き詰めれば省略を繰り返すことであり、姿形を創作することである。
決してリアルなものではない。
それをリアリズムとして表現することはその段階にすでに作家の目が入り、
思考が入るものである。それを現場至上主義のように言いくるめてしまうと
作画の幅や奥行きを自ら狭めてしまう様な気がする。
好んで足かせをはめることもなかろうという気がする。

作品というのはその現場取材を基に描きたいものをすくい取りさらに頭に溶かし込み
その上澄みのほんの数滴のエキスを画面に定着させる作業の繰り返しのような
気がしている。

現場で仕上げる事も出来るし、仕上げると言うことをアトリエで様々な思考を巡らせながら
格闘して「表現する」ことの意味も否定しない。
むしろ、孤独な格闘技というのはこうしたアトリエでの七転八倒の作業を言うのではないかと
思うのである。

小説などの文章作家が、取材ノートをもとにして書斎で苦しみ
悶えながら身を削って言葉を紡ぎ出すように
絵画作家は色と形という言葉を画面に記録し続けるのだと思う。

「偶然とはありがたいものですねえ」とさらりと言いのけてしまう中川幸夫氏のように
肩の力が抜けたときに、邪心を捨てた本当に良い作品の一部が描けるのではないかと
しきりに感じるのである。

結局は「偶然」をものにするという少ないチャンスをつかめるかどうかが
その人の才能なのだと思うのだ。
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by kotendesky | 2006-07-27 01:15 | (七転八倒)制作記!


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