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2012年 11月 13日

木嶋論(3) 終章

≪終章≫

ここまで書いてこの原稿を中断していたら、この秋に精神科医である上司との面談で、絵画制作の作業とは何かを話す羽目になった。そこでは自分の持っている形や色や空気感を認知することとそれを認知させることがシンクロすれば多くの人に作家が訴えかけられるのではないかという持論を展開した。これは自分が絵画の制作を通じて感得した境地であり、現段階で最も自分ではぴったり来る説明である。
ものを認知するという根元的な精神活動が結局は絵画という平面構成を見せるという行為に連動するものだということである。それはあたかも視覚を通じてバーチァルにそこにまさに存在していることを触れて確かめたかのように脳が錯覚して認知することを目指しているのである。
精神科医と話をしていて、多面的な現代社会において統合失調とは何かという感覚に包まれた。古典的な視覚と違い、現代は触覚、嗅覚、味覚や聴覚までもが再現されて経験されると統合するという行為は必ずしも普通のいわゆる正常なことではない。むしろ統合することの困難さの方が際だつのではなかろうか。
木嶋の一番弟子と言って良いであろう澤田範明(道展)は作品の肝をatmosphere(=雰囲気?)と端的に括って言うが、その考え方もまたこの観念的皮膚経験からの説明によって成り立つものだろう。

渡辺貞之(全道展)は、美術ペン137(2012年/SUMMER)の巻頭において、つぎのように述べている。
『…意識して「観る」うちに、何か強く一つの方向に引っ張られていく、つまりそこに目に見える事実的現象から、しだいに離れていく思いになります。セザンヌはそのことを「仮象」と呼びました。(後略)』
さらに
『写実というものを完全に達成するためには何が必要なのか。ゴッホは「描いているとそのものが以前には見えなかった色に見えてくる」といいました。  
写実の完璧化を目指していると。それが徹底するにしたがって自己崩壊していくような気がします。「見えるとおりに描く」という古典的視覚は、仮に同一化に達したと思われても、それはかえって倦怠を感じさせる作品になるだけです。写実の徹するところは、究極において、真実と虚構の断絶が亀裂として姿を現すのです。模倣とはリアリティに類似を目指しながら、どこかほんのわずかながら、対象の不在、現実への否定と無為を模索している。それは模倣の持つ本質的限界なのでしょう。「似ている」ということは終局において「どこか似ていない」ということなのです。』  -引用終わり

もうひとつの対極の考え方に見える野田弘志のリアリズムにおいては、私たちの自然を構成する何かの要素が無尽蔵であるという前提に立脚する。あるものを床でも壁でも人物でも立体としてきちんと写しとったら絵にしっかりとした本当の空間ができてひとつの現実が現れるという。その崇高な存在の価値が無尽蔵である現実空間があるからこそ、それに近づくにしたがって芸術的行為の意味や価値があるということを指す。

当初この文を書いていて、木嶋良治と渡辺貞之の文章が言い当てている焦点の深さにきらめくような共通点を感じた。それとともにリアリズムに迫る精神の働きは結局は「無尽蔵である自然」に対峙するとき、その存在の意味の深さを追求するという精神による現実の再構築であるという一点に意味が絞られるのだと言うことを理解した。
芸術である絵画においては、結局はこの世界の認識を深く思考しその全貌を知覚しながらわずかな亀裂に現れる崇高な美学を写しとってゆく作業なのではないか。その過程においてはゴールのない永遠のレースを走り抜く強靱な精神力が必要だという、ただひとつの解答である。
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by kotendesky | 2012-11-13 06:56 | ギャラリー放浪記


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