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(ときどき)個展deスカイ!

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2012年 11月 13日

木嶋論(2)

(承前)
はたして木嶋良治は、その水面に映り込む建物の『影』に何を見たのだろうか。
水に映る影は見る角度にもよるが、充分に視程が長いと水辺の建物の影は実際の建物の高さより低く見える。
これは湖の岸から向こう岸の木や山の影を見た時に経験する事である。
しかし、木嶋のように充分に建物に接近しかつ自分が物置のひさしくらいの高さの何かの台によじ登ったり雪山に登ったりして描く時、建物の影は今度は実際の背丈より相当長くみえる。これは対象物に近づけば近づくほど2次関数的に長く見えるはずなのである。その長さは実際に写る運河の幅よりも数倍長く感じられたはずである。
「影は短く描く」という理屈は理屈として経験から木嶋はこの興味深い事実に気がついたのだろう。そしてそのことと実際の風景を画面上で構成することで、木嶋のイメージする沈黙の言葉を運河や建物から感じ取ったのだろうと思う。
1986年頃から木嶋が戻ってきた小樽運河の作品はむしろ建物の影を描くことが主目的に感じられるものになってゆく。
木嶋にとって水に映り込む影とは何か。この答えはおそらく誰にも見いだせないであろう。われわれにとって手掛かりになるのが木嶋自身が書いた文章である。そこにはつぎのような一文がある。
『影を通して眼に見えないもの、たとえば空気、音楽をどう表現すればよいのか、などと考えながら、耳を使って観ていくと、絵が動き出し、面白い発見があるような気がします』とか
『想像力を働かせると、描く側の意志だけではない、描かれる側の意志があるだろうと感じることがある。
この世界とは観念だろう。
時の経過を感じさせる石壁や建物の存在感、刻まれた文字、紋様、前景の水辺、雪原らはすべて”沈黙の言葉”をもっている。』
と書いている。(心の原風景-風土への賛辞 木嶋良治展図録 2012年市立小樽美術館発行)

同じ作家であれば描くと言うことの高みに登って行くとしばしば体験するが、描かれるものが描かせてくれるという感覚に到達する。観察を深めて行くと観察が思考の深みにはまりこみ、観念と混ざり合わさり、ついには描かれるものの意志がこちらの意志とシンクロナイズする感覚になる。このことが木嶋の言う沈黙の言葉なのであろう。
サイモンとガーファンクルは、観念を巡らせる若い高校生の自分を暗闇の旧友と表現している。大学を卒業しスポーツも試験も優秀な成績を収めた激しい陽の当たる時期を終えて、就職という大人の世界への行き先にとまどった時、この古い暗闇という友人に再び会いに行く。その映像は脳の中に植え付けられたと表現され、沈黙の音に触れるのである。
木嶋の言う描かれる側の意志はまさにサイモンとガーファンクルの言う沈黙の音と同義であるのだ。
そしてこれは重要な点だが、木嶋良治という画家の規定である。具象作家もしくは写実作家という規範にはあてはまらないと筆者は高校生の時から感じてきた。抽象作家と決めつけることはできないがそれに近い空間構成の作家だという事である。画面上での構成は写生ではなく一度頭の中で抽象化しそれを独自の空間把握や美意識でパーツを構成して行くようである。記憶や体験の入り混じった単なる具象の再現でない事を意識しているのだ。
それが60年代後半から80年代にかけて木嶋が実感してきた世界観であり木嶋良治の意識なのである。
具象とは何か、写実とは何かと考えがちだが、実在世界を表現する時に観念のない作品というものはあり得ないだろう。存在の意味するところは或る意味で観念的なものであり観念が存在表現を意味づけるのである。観念の通過なくして絵画にしろ音楽にしろ作品の成立はあり得ないし、自己の写り込む世界がむしろ自分の世界なのであって無意識に人間は観念をないまぜてものを見ているのであろう。
観ると言うことが実は脳の意識する自己表現であり、総括的に見て感じるという技なのである。それを文字や言葉や絵で表現する時、それぞれの写実は観念という思考作業抜きに表現しきれない。(つづく)

by kotendesky | 2012-11-13 05:23 | ギャラリー放浪記


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