2012年 05月 28日
心の原風景 -風土への賛辞 市立小樽美術館 小樽美術館で先週末26日(土)に開会セレモニーがあって出席してきた。 木嶋先生は言わずとしれた北海道美術界の重鎮だが、本人は派手なことが嫌いなタイプなので今ひとつ正当な評価を受けていないと筆者は感じる。 もっと高い評価を受けても良いと思うが、それは今となってはみんなが考えるべきことで、弟子の自分がいくら力説したところでひいき目に見ているという受け止め方になろう。 木嶋先生が60年代後半から70年代のことを書いている。 『…新しいグループの誕生も活発で、前衛を旗印にいろいろな名称でグループ展や個人的な発表が活動的に行われていました。壁面には抽象画が多くなり、大作が増え、壁面だけでなく、空間、床までも占める作品があったり(中略)既成画壇に問題を投げかけ、あたかも新しい勢力ででもあるかのように報道され、あるいは行動をして人びとに伝達されました。道展の会場に抽象の部屋が出来たのもこの頃です』 木嶋氏はその60年代70年代の渦中に身を置くわけである。いうまでもなくこの時代は同期の米谷雄平らが道展に居ながらにして新しいグループを結成し、自律的に大丸藤井などのギャラリーで作品を発表するわけである。 誤解を受けるといけないから断っておくが、木嶋氏は亡くなった米谷雄平さんの親友である。ふたりの仲の良さは周知のモノである。筆者はある場所で同じ風呂につかりながら米谷雄平さんが『(木嶋氏の)人生で一番良い年齢の時に本を作ったな』と画集の編集者である筆者にうれしそうに話してくれたことをおぼえている。そのほかにも、いわば前衛あるいは現代美術のグループに属していた多くの作家も木嶋氏との交流は特別なものだったと言える。人を引きつける魅力があるのである。 閑話休題。 その渦中に美術家として存在し、かつ北海道教育委員会の教育課程趣旨徹底実務の委員など、いわば体制側の役割を引き受けたわけだ。この役割は当時は誰かが引き受けなければならないいやな役目だったものである。その仕事は文部省の方針を美術教育の中に趣旨徹底させるという、先の木嶋氏の文章からにじみ出てくる時代の気分を考えればとても困難な仕事だ。それはちょうど今の時代に『原発はエネルギー安全保障から考えて2割は必要だ』ということを理解させようとしていることと似ている。 師範学校の系譜である特美の一期生として、在札の大規模道立高校の教諭としても断れない役回りだったのだろう。 その、孤立感は教師としてあるいは公務員としてその場に身を置いてみなければ分からないだろうが、今日の閉塞した社会で政府として改革を実行する居心地の悪さと非常に似ているものだろう。 木嶋氏はそのような中でさらに小樽運河の埋め立てという問題に直面する。 埋め立ては、青春時代に病をいやした中で心の投影でもあるかのような運河の水面に沈黙の言葉を感じ取ったようなナイーヴな感情に打ち付ける激しい波だったに違いない。 運河論争を避けるようにこの頃、しばらく釧路やオホーツクに取材のフィールドをもとめる。 本展で入り口を入ってすぐの右側、すなわち順路で言えば一番先にこの時期の『幣舞橋』(1974年)がかかっている。 図録の一番最初もこの作品である。 この絵は昭和49年の第49回道展に『橋』として出品されている。同じ年の二紀展にも同じ題名の絵が出品されているが、筆者が記憶している限りでは多分同じ作品だろうと思う。(後年若干の加筆がある) 多くの鑑賞者は意外に思うかもしれないが筆者は研究者として木嶋良治論を進める上で、個人のエポックメイクである作品はこの釧路の幣舞橋をデザイン的に描いたこの作品だろうと思っている。 このことを、この企画が進み始めたころに小樽美術館側に伝えたが、はたして美術館はやはりこの作品の重要度を認めたことに変わりはない。 この絵を境に木嶋氏はさらに深く哲学的に沈潜して行くのである。 (続く)
by kotendesky
| 2012-05-28 23:10
| ギャラリー放浪記
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