2009年 06月 17日

KORE WA NAN-DE-SUKA?

絵を展示すると、たいていの場合『これは何ですか』と、聞かれる。
ザクロが枝に乗っかって空中に浮いていたり、抽象の背後空間に具象の静物が浮いていたり、
あるいは壁面とも卓上ともつかない中途半端な場所に毛糸の玉が描かれているからだろう。
道展では変化のつかない山の斜面の退屈さを指摘されもした。

すべては、自分の描く力がまだまだ未熟なせいであるが、逃げるわけではないが表現の曖昧さを,
意識して居る場合もある。
昨今は記憶や追想に基づく時間の経過を画面に閉じこめようとして時間軸を意識するようになり、
ますます画面が混沌としてきた感じもある。

当分『これは何ですか?』と聞かれる場面が多くなりそうだが、自分の持っている
具象をバックボーンにして不定形もしくは模糊とした抽象的な気分を画面に定着させる行為が
つづきそうな気もする。

絵を描くということと美術を鑑賞すると言うことは、一応すべての行為をいったん消化して吸収し
それを濾過することだと思う。人が描いたものでもいったんすべてを受け入れてそこに意味を
感じようとするし、そこに作者の意図する表現を見つけられるかという探求の精神がある。

作家はまず、肯定することから出発しなくてはならない生業だ。受け入れて消化できないものは
自分の未熟さから消化できないのかあるいはほんとうに消化できないものなのかを見分ける能力が
備わっていなくてはならないと思う。

それは作品を批評する場合にも言えることである。
受け入れることとそれを解析することはつまりはその批評精神の錬磨が試されているものである。
ある意味では批評はそれじたいが批評にさらされているといえる。
その批評が評価にたえると言うことはつまりは批評家が観衆の水準の上に位置することである。
批評が解釈の未熟さを露呈するという愚だけは避けてほしいと思うが作家もその水準を意識し、
出来うれば批評の水準の上に位置して欲しいと思うのである。
そうやって芸術は向上して行くものだと思う。

『これは何ですか?』という問いは少なくとも私という作家の表現を、受け入れようとしている人がいて
初めて交わされる言葉なのだ。
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by kotendesky | 2009-06-17 23:42 | (七転八倒)制作記!


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